"制作中の作品「Digitize memory(仮題)」の要素" 2021
"digitus" 2021
"digitus" 2021
"digitus" 2021
"digitus" 2021
"digitus" 2021
"digitus" 2021
"digitus" 2021
"digitus" 2021
"制作中の作品「Digitize memory(仮題)」の要素" 2021
Photo by Keizo Kioku

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TARO NASUでは万代洋輔新作個展「digitus」を開催いたします。 

1980年 東京生まれ、東京にて制作活動。 
主な展覧会に、2019年「六本木クロッシング2019展 : つないでみる」(森美術館)、「FOTO / INDUSTRIA」(International Museum and Library of Music)、2017年「APMoA Project, ARCH :Digitize memory with 5」(愛知県美術館)、2016年「Friday, September 9 – Friday, October 7, 2016」(TARO NASU)、2015年「通行人間」(CAPSLE)、2014年「あばら骨しか信頼してないじゃないですか俺」(TARO NASU)、2012年「病める万代、無類無敵の情熱」(AI KOWADA GALLEY)、2009年「RADICON」(ヒロミヨシイ)など。

擬態の入れ子と、道標としての指

  本展では、擬態とデジタル技術をめぐる連想が、幾重にも絡まりながら展開されている。

展示空間に足を踏み入れると、列柱の上に立つ彫刻のごとく、マッサージテーブルの脚の上に設置されたコノハズクの剥製が目に飛び込む。しかも、このコノハズクの剥製は奇妙に身を細らせた形だ。この不自然とも見える身体の変化は、実はアフリカオオコノハズグが木の枝に擬態しているがゆえである。アフリカオオコノハズグは敵から身を守るために、つまり己の生存をかけて擬態する。

 このコノハズクを出発点に、擬態についての考察が、写真、絵画、デジタル技術等、異なる領域を行き来しながら展開される。

 さて、本展の中心をなすのは、簡易なデジタル機器でラフに描かれたかのように見えるデジタル画像だ。いずれも農耕地などの風景であろうか。全体がぼやけているので判然としないが、多くの風景に、手前から奥へと続く道のようなものが描かれ、奥行が強調されている。

 この奥行に最初に注目しよう。そもそも、二次元平面上に、実際には存在しない奥行を錯視させることが、絵画の長年のタスクであった。平面なのに、光学的なパースペクティブに基づく視野が広がっているかのように見せる、これも見る者の目を欺く「擬態」の一種と言えるのではないか。つまり、これらイメージは絵画史における擬態の一側面を、デジタル画像を通じて意図的に切り出したと言えるだろう。

 ただ、これら奥行による誘導があるにもかかわらず、見る者の視線は気持ちよく画面の奥へと流れていかない。なぜならば、そこに奇妙な物体、シリーズタイトルでもある人の指(digitus)が配置されているからだ。植物でも建物でもなく紛れもない指が立っており、しかも影がある点から、この平面上に表れた風景の中にその指は存在している格好をとっている。また、明示されている指は、平面作品のうち数点だけなのだが、一度、指の存在に気づくと他の作品にも指が無いかどうか探してしまう。

 加えて、この指の謎めいた存在感を一層、強めているのは、イメージ全体のぼやけ具合に他ならない。にじみぼやけたイメージは地と図の境目が曖昧で、前景と中景、後景が連なって見える。だからこそこの指は、たとえ影を備えていたとしても、その風景のどの地点に立脚しているのかが、分かりづらい。そうしたふわふわとした存在が、トーテムポールのようにぼんやりと立っていることで、ノスタルジックな親密さとも不安感を煽る不気味さとも異なる奇妙な生々しさが生じている。指という有機物がトリガーとなり、ぼやけたイメージ全体が呼吸するかのように感じられる。

 ここまで、視覚的に展示を構成する要素のうち、そのイメージの表層の次元(擬態しているコノハズク、デジタル画像に描かれた風景と指)を確認した。しかし、これでは本作をめぐる謎めいた構造を十分に読み解いたことにはならないだろう。続いて生成過程から本作を読み解きたい。

最初に、「簡易なデジタル機器でラフに描かれたかのように見えるデジタル画像」と私は紹介したが、実はこれらのイメージはすべて、インターネット上から見つけたデジタル写真をPhotoshopで加工し、「スマートフォンのお絵かきアプリで描かれたイメージ」に似せたものである。つまり、これらのイメージは写真に出自を持っており、写真から絵画への「擬態」を試みている訳だ。

もっとも、写真が絵画を模倣する潮流は、ピクトリアリズムはじめそれほど珍しくは無い。ただ、それらと本作を大きく分かつのは、アウトプットされたイメージからは写真か絵画かの区別が視覚的には分からない点だ。つまり、銀塩写真や油絵のように作業工程が物理的に刻まれていないため、デジタル画像の編集においては作業工程の前後関係が「今現在のアウトプット」へと一元化されてしまう。そのため、編集を経た後だと、何がこのイメージのオリジナルで、いかなる編集履歴の後にこのような形となっているのか、視覚的には判断できない。先ほどのコノハズクの例で言うと、コノハズクが木を模しているのか、あるいは元々、木であったのかが分からない状態である。

また、Photoshopなどのアプリケーション自体、既存の機器や道具の「擬態」を含み込んでいる。例えば、これらアプリケーションには「ブラシツール」などの機能が備わっている。しかしながら当然、モニター上に線を引き色を塗る「ブラシツール」の機能と、手に持ったブラシに実際に顔料を浸し平面上にそれを塗る行為は全く異なる。しかしながら、ディスプレイ上の「ブラシツール」は実際のブラシによる作業を擬態した効果を備え、また、そのアイコンもブラシの形を模している。このようにデジタル機器に備え付けられた諸機能は、全く別種の経験や行為に擬態することで、人にとって馴染みやすいものとなっているのだ。デジタル機器が従来の機器や道具へ擬態する傾向は、「スライドショー」の機能や、「フィルム風のイメージ」に仕上げるフィルター等、あらゆるところに見て取れる。

さらに、カメラや画像編集の機能自体、既に「カメラ」などの自律した機器から離れ、デジタル機器にあらかじめ備わっている数あるアプリケーションの一つとなっている。カメラを使わずともスマートフォンやタブレットで写真を撮り、編集、公開できる。これはカメラという機材自体の消失と言えるが、それでもスマートフォン等のディスプレイには従来型の一眼レフやレンズを模したアイコンが用いられている。デジタル機器は、カメラという機材を呑み込みつつ、その機能と姿の擬態を通じ、従来のカメラや画像編集が存続するかのように振る舞っているのだ。

一方、これらのデジタル機器を使う人もまた、デジタル機器における撮影、画像編集、公開の過程をある種、内面化している。昨今、写真の撮影者の中には、写真をどう撮り、その後、どのように編集し公開するかまで一連のものとして総合的に考える者が少なくない。何も難しい話ではない。撮った写真に対して、どのようなフィルターをかけ、いかなる情報と共に、どこに向かって公開するか。インターネット上に写真をアップする人は、瞬時にこれら画像編集、公開過程について考え実行する。あたかも機器の諸機能(自動フォーカス、各種のフィルター、自動タグ付け等)が、撮影者の中に既に内蔵されているかのようだ。撮影者はそれらデジタルツールが効果的に機能を発揮できるよう、機器のアプリケーションにできる限り寄り添う。それを、人による機械への「擬態」と捉えるのは言い過ぎだろうか。

つまり、本作はデジタル技術について扱うものであるが、デジタル画像のデジタル技術による編集という行為の中に、複数の「擬態」が入れ子状に潜んでいる。写真を絵画のように編成する行為そのもの、その過程で用いられるアプリケーション、そしてそのデジタル機器の機能を内面化し、その機能、その目に身を添わせる人間。細部においても、また、全体においても、次元の異なる擬態がデジタル画像の周囲をネットワークのように取り囲んでいる。

ずいぶん作品のイメージそのものから離れてしまったように感じるかもしれない。ここで再度、展示されているイメージ群、すなわち「スマートフォンに内蔵されたお絵かきアプリ等で描かれたイメージ」に戻ろう。スマートフォンのお絵かきアプリの大きな特徴は、それが基本的に指(digitus)で描かれる点である。スマートフォンは、指がディスプレイ上に接触することでイメージを生み出す。

こうして、シリーズタイトル、平面作品内に顕現する指のイメージと、本シリーズが目指すところの「スマートフォンに内蔵されたお絵かきアプリ等で描かれたイメージ」の生成過程が繋がる。イメージの中に立っている指は、これらイメージをまさに生み出す道具である指そのものが、イメージの中にメタ的に描かれていると捉えられるだろう。指が、イメージの内部のレベルとイメージを生み出すメタレベルの両方を意味している。

とはいえ、こうしてイメージの作られる構造について自己言及的に扱うことで、イメージ上においては隠されているテクノロジーの層を可視化させる意図は、万代にはなさそうだ。加えて、イメージとその生成システムの関係に破れを生み出そうといった批判的志向も希薄である。むしろ、見えてはいけない、見えるはずのない「指」があることをも許容してしまうデジタル画像の微温的な態度が、本シリーズの基調を成している。イメージの部分的破損やねじれを通じて、「イメージのリアリズム」の向こう側を露出させる必要はもはやない。そうではなく、「イメージのリアリズム」の向こう側が露出したとしても、放っておいてしまうその態度こそが、デジタル技術をめぐる現在の状況ではないだろうか。

 そして、ここでシリーズタイトルを改めて取り上げよう。実は「指(digitus)」から派生した形容詞こそが「digital(デジタル)」である。一説によると、指をおって数える行為から、やがて「digital(デジタル)」の用法へと展開されたようだ。そうであるならば、万代が扱うデジタル(digital)技術は概念上、その古層に指(digitus)を持っていたこととなる。

デジタルの語源に「指」があること。デジタル技術であるスマートフォンのお絵かきアプリが指の接触によって操作されること。こうして両者がアナロジーによって想像的に結びつく。結束点にあるのは、まさに「指」のイメージそのものであり、全く次元が異なるもの同士が連想の力で重なり合うのである。

ところで指は元来、何かを指差す役割もあった。デジタル画像内に屹立する指は、まさに路傍の道標に擬態した指、とでもいうべきか。どれも上を指しているが、それはイメージ内の上部の意味なのか、あるいは、このイメージの上位にあるネットワークを示しているのか。いや、ここまでこの指は人差し指であると仮定して考えてきたが、実は中指かもしれない。デジタル画像の内側に中指を立てる行為は、何を意味するのか。指と「擬態」をめぐる魔術的アナロジーの道行き、その行き先はなお、ぼやけて見通せない。

中村史子(愛知県美術館学芸員)